2013年2月アーカイブ
ロアルド・ダールの小説「チョコレート工場の秘密」が原作の映画。5人の子供たちが不思議なチョコレート工場の世界を体験するファンタジー・コメディ。
主人公のチャーリー・バケットはとても家族思い。両親とその両親合計7人で一緒に住んでいて、貧しい生活をしている。近所にある謎の「ウォンカ」印のチョコレート工場は世界でも大人気。ある日、ウォンカは子供たち5人を工場見学に招待し、その中の1人には副賞があることを告知した。世界中の幸運な子供たち5人の中にチャーリーも入っていた。工場を見学して夢のような、不思議な光景を体験していく。ところがあらかじめ仕組んであったかのようにハプニングが起き、子供たちは次々と脱落。最後に残ったのはチャーリーだけ。ウォンカはチャーリーに副賞を与えるが断わられ、家族も一緒という条件でまた副賞を与えようとするが……。
一見子供向けの映画のように思われるが、年齢層に関係なく楽しむことが出来る映画になっている。子供たちがそれぞれの場所でハプニングに合うシーンでは、ウォンカのもとで働いているウンパ・ルンパと呼ばれる小柄な人々が必ず出てきて、歌と踊りをする。その子供に合った歌を歌うので歌詞に注目しながら観るのもおもしろい。このように愉快で楽しめるシーンも多いが、チャーリーが工場見学を出来るように手助けしたり、家族と離れることは出来ないと、家族のことを一番に思うバケット家の家族愛がみられるシーンも多々ある。チャーリーは貧しくても家族のことを大切にする純粋な心の持ち主だったから、最後まで工場見学で残ったのだと思われる。
この映画は、こういった家族を大切にすることも視聴者に伝えたかったのかもしれない。
愛とは何か、永遠とは何か。そう問われても、私たちくらいの若い年齢では、まだ、答えられない人も多いのではないだろうか。少なくとも私はそうである。しかし、そのようなことを考える材料やきっかけとして、この本がふさわしいのではないかと思った。村上春樹の小説、『ノルウェイの森』である。
主人公の「僕」は、大学生で18歳(途中で19歳、そして20歳になる)。彼には高校時代、唯一仲良くしていた友人がおり、その友人の名はキズキといった。そしてキズキには、直子という別の高校の、同い年で幼馴染であり恋人でもある女の子がいた。「僕」とキズキと直子は、よく三人で一緒に過ごしていた。高校3年のある日、遺書も前ぶれもなく、キズキが突然、自殺してしまうまでは。その後、別々の大学に進学した「僕」と直子が偶然再会するところから、物語は動き出す。
キズキの死後、殆ど会っていなかった二人が、それを機によく二人で過ごすようになる。その時の二人の間の感情は、愛、と呼べるのかもしれない。しかし一方で二人は、キズキというそれぞれの「大切な存在」を失った空虚感のようなものを共有して、寄り添っているようにも読みとれる。だがそんなある時、直子は精神のバランスを崩し、山奥の療養所に入ることになる。「僕」はそれでもそこへ手紙を出し続け、直子との関係を保とうとするが……。
私の感じたことは、この物語で「僕」は常に何かを待っている状態にあるのではないか、ということだ。キズキが死に、直子が療養所に入り、「僕」は何かずっと、待ち惚けを食わされているような気がする。そんな「僕」の姿から、冒頭に挙げた、「愛とは、永遠とは何か?」というようなことを、改めて考えさせられる。
そのような状態にある「僕」は、最終的にどう生きていくのか。そして、愛とは、永遠とは、何だろうか。ぜひ一度読んで、「僕」の姿を通して考えてみてほしい。
「千と千尋の神隠し」宮崎駿 byたお
裕福な家庭に育った葉蔵は、本能である「空腹」という感覚すら知らない。人間の営みと言うものがわからないことに大変な不安を持つ彼は、自分一人が何も分かっていないという恐怖に襲われる。そしてそれをごまかすため「道化」を演じるようになる。中学でも道化を演じる葉蔵だが、その葉蔵の道化を見破る少年竹一に出会う。その後上京し、高校に入学。彼は、画学生堀木と知り合う。堀木と遊び回るうちに、カフェの女性と知り合い、ある事件を起こしてしまう。家からも勘当された葉蔵は、堀木の家で知り合ったシヅ子という女性の家に居候を始めるが、ふとしたことでシヅ子の家を出ていく。その後何人かの女性の家を転々とするが、そのうち葉蔵の生活は乱れ、再び事件を起こす。 内容がとても重苦しく、一度読んだだけでは理解し難い。薬や女に溺れて堕落し*ていく葉蔵に嫌悪感を抱く人もいるかもしれない。しかし誰でも一度は葉蔵と同じような経験をしたことがあるのではないだろうか。わざと道化を演じたり、本心をさらけ出すのが怖いと感じることは誰もが経験していることだと思う。何度か読み返したり、深く考えていくうちに、葉蔵の繊細な部分が見えてきておもしろいと思えてくるのではないだろうか。
宮沢賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の妹トシの死から2年後に初稿が成立したと言われる作品である。主人公のジョバンニが、友人カムパネルラと共に銀河の不思議な旅をするという幻想的な物語。
ジョバンニの父は漁に出たまま戻らず、母は病院で寝たきり状態。苦しい家計を支えるために学校に行きながら働き生活している。銀河祭りの晩、丘の上で寝ていたジョバンニは気付くと銀河鉄道に乗っており、前の席にはカムパネルラがいた。2人は銀河の幻想的な旅に出る。そこで様々な出会いと別れを経験する。その中で、沢山の生き物を殺して生き延びたさそりが「ほんとうのみんなの幸」を祈り輝く星になったという話を聞く。ジョバンニは「ほんとうのみんなの幸」を探すためにどこまでも一緒に行こうとカムパネルラに言うが彼は消えてしまう。目を覚ましたジョバンニは、カムパネルラが命を犠牲にして友人を助けて死んだことを知る。
この物語で賢治が伝えたかったことは人々の幸せ、そして死ではないかと思う。妹トシとカムパネルラを重ねてこの作品を読み返してみると、奥深く感じられる。賢治にとって妹トシは大切な存在であった。2人の関係はジョバンニとカムパネルラに似ている。また、賢治は星を見たりするのが好きだった。そのため、他の作品にも「双子の星」や「よだかの星」など星についての作品が多い。その中で銀河鉄道に妹トシをかさねたと思われる。銀河鉄道という幻想的な列車に夢や希望を乗せて2人で旅をするが、そこには別れや悲しみもあった。カムパネルラの死にトシの死を重ねて表現し、その悲しみを伝えているように感じる。「世界中の人々が幸福でなければ、自分の幸せはない」と考えていた賢治は、その思いと大切な存在を失った悲しみを銀河鉄道に乗せて、本当の幸せを探し、1人でも多くの人を幸せにしたかったのだろう。このように銀河鉄道の夜は賢治の気持ちを表した作品であり、読者にも本当の幸せを探してほしかったのかもしれない。
監督をジョン・マッデン、脚本はトム・ストッパードが手がけるアメリカ映画である。主演はグウィネス・パルトローとジョセフ・ファインズが務め、第71回アカデミー賞を始め、数々の賞を受賞している。
舞台は劇場の閉鎖が相次ぐロンドン。新作劇『ロミオと海賊の娘エセル』の上演準備を行っていたウィリアム・シェイクスピアの前に、役者に憧れる資産家の娘ヴァイオラが男装をし、トマス・ケントと名乗り、現れる。そしてその演技力を買われ、ロミオの役を得る。シェイクスピアはやがてトマス・ケントがヴァイオラだということに気付く。既婚者であるシェイクスピアと、娘としての務めを果たすために貴族であるウェセックス卿との結婚を前にしていたヴァイオラは決して結婚できない関係であるにも関わらず忍んで会う仲となる。二人の恋は果たして喜劇に終わるか悲劇に終わるかが問われるラブストーリーである。
ウィリアム・シェイクスピアといえば、『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』など有名な作品を巧みな言葉の数々とともに生み出した劇作家、詩人であるため、まず私がこの『恋に落ちたシェイクスピア』という映画のタイトルを見たとき、どんな言葉たちが恋を彩っていくのだろうかととてもわくわくした。やはりシェイクスピアは私を裏切らず、多様な言葉でヴァイオラを口説き、私も惚れてしまいそうなほどだった。その中でも特にトマス・ケントがヴァイオラだと知らずにシェイクスピアがヴァイオラのことを話すシーンが魅力的だった。せめて映画の中だけでも素敵な恋がしたい!という人にぜひおすすめしたい映画である。
「たけくらべ」とは、背丈や思いの丈を競うという意味で、題名の通り十代の少年少女の成長が、吉原遊郭周辺に住むのちに遊女となる大黒屋の美少女・美登利と僧侶の息子・信如の恋愛を軸に描かれている。話は八月の夏祭りから始まり十一月の酉の市でクライマックスを迎えるが、最後には彼らが夏祭りで見せていた子どもらしさは消え、大人へと成長している。この地域の子どもたちは親と同じ職につくという決められた将来に少しも疑問を抱いていない。しかし、美登利と信如だけは親の後を継ぐことに疑問を持っている。二人は同じ学校に通っており、意識し合う仲であったが、そのことを友達にからかわれた信如は美登利を避けるようになり、それを知らない彼女は信如が自分に意地悪になったと思い込んでしまう。子どもたちは表町組と横町組に別れて対立しており、美登利と信如は別々の組にいて、二つの組の喧嘩によってさらに二人の仲は疎遠となってしまう。
中でも印象深いのは、雨風が強い日に、信如の下駄の鼻緒がたまたま美登利の家の前で切れてしまい四苦八苦している中、美登利が端切れを渡す場面である。信如に気付き顔を赤らめ端切れを彼の元へ投げる美登利と、それを「ゆかしい」と感じながらも受け取ることができず立ち去る信如とのせつなく不器用な恋は思わず「じれったい!」と言ってしまうほどで、雨の中に残された端切れに哀愁を感じる。
造花の水仙が美登利の家に差してあり彼女がそれを手にとりいつくしむ姿で物語は終わるが、その花には信如との思い出が詰まっている。後からわかることだが、その日はまだ先と言われていた信如が僧になるための学校に入る前日のことである。まさに二人が不器用ながらにも想い合う姿こそが「たけくらべ」なのであろう。
まずは現代語訳で読むのもいいが、この作品の持ち味や独特の雰囲気を感じるためには、ぜひ原文で読んでみるべきであろう。
主人公のオリバー・ツイストはある事情があって救貧院で育てられることになった。9歳になったオリバーは孤児たちと共に過酷な労働をさせられる。しかし満足できる食べ物などは与えられない。子どもたちはとなりに寝ている子を食べてしまいそうになるくらいお腹を空かせている。
ある晩、おかわりを頼む者をくじ引きで選ぶ。そしてそれはオリバーに当たる。その晩、鉢と匙を手にし賄係りのところへ行き、オリバーは言った。「すみませんが、もっと欲しいんです。」賄係りはオリバーの頭を殴り、教区史に言いつけた。
翌朝、門の外にオリバー・ツイストを引き取ってくれるものには5ポンドの報酬を出すという掲示が張り出される。それを見た煙突掃除夫のガムフィールド氏が 申し込む。だがオリバーは怖くて怖くて怯えた顔をしていた。それを見た老紳士は「こんなことは絶対によくない」と言い、オリバーを救貧院に戻させた。次に 葬儀屋のサワベリー氏が申し込み、引き取られることになるがオリバーはひどい扱いをうける。そこでオリバーは逃亡することを決意する。
その逃亡する先で起こることは本でお楽しみください。
この作品は映画化もされており、とても切ない話だ。オリバーはもちろんかわいそうだが、わたしはスリの窃盗団のフェイギン一味の子どもたちもかわいそうだ と思う。なぜフェイギン一味となってしまったのか。それからオリバーと共に過酷な労働をさせられていた子どもたちの運命はどうなっていくのか。
子どもにこそたくさんの未来や夢が待っているのに、大人たちはひどい扱い、差別をする。しかし、人間は無意識に差別をしてしまうもの。わたしたちも無意識 のうちに差別をしているのだと思う。差別がこの世からなくなればどんなに幸せだろう。しかし、少しでもそう思う人がいるだけで少しでも違うのだと思う。オ リバーが最後に捕まったフェイギンのところに挨拶に行くところは、オリバーの優しさが出ている場面だと思う。常に差別のことを考えるわけにはいかないが、 気にとめることを大事にしたいと思う。
『オペラ座の怪人』監督:ジョエル・シューマカー。キャスト:ジェラルド・バトラー、エミー・ロッサムジェラルド
オペラ座の地下に隠れ住んでいる男が、美しい心と声を持つクリスティーヌに出会い恋に落ちる話。
オペラ座の怪人ことファントムは、生まれつき顔に痣があり、それが原因で親に捨てられ見世物小屋で育った。その見世物小屋で日々ひどい扱いをうけていたファントムは、ついに自分を見世物にして荒稼ぎしているその男を殺してしまう。その一連を偶然見ていた、当時オペラ座の寄宿生であったマダム・ジリーはファントムを連れ出しオペラ座の地下で匿(かくま)った。そして時は経ち、ファントムはオペラ座の地下での生活を続ける内に建築やデザイナー、オペラの脚本などをこなす天才へと成長していった。
しかし、そのことを知っているのは当人達だけであった。オペラ座の地上で暮らしている寄宿生や支配人達は、姿は見せないものの脚本などをこなしオペラ座を牛耳るファントムに怯えていた。その上、莫大な給料を要求したり、気に食わないことがあると嫌がらせをするファントムはみんなの疎まれ者だった。そんなファントムであったが、ある日寄宿生としてやって来た美しい声を持つクリスティーヌに心惹かれ、溺愛し幼いうちから歌を教えた。クリスティーヌは、姿は見えないものの優しく歌を教えてくれるファントムのことを天使と呼び、その心安らぐファントムの声に亡き父の姿を重ねながら師として慕った。
ある日、オペラ座に、スポンサーとして幼い頃クリスティーヌと恋人同士であったラウルが訪ねてくる。若くて美しいラウルとクリスティーヌは忽ち恋に落ちていく。その様子を見ていたファントムは遂にクリスティーヌの前に姿を現してしまう。そして、彼女を自分のものにする為に、誘拐したりラウルと戦ったりを繰り返す。だが、そんなファントムをも彼女は受け入れ愛していた。しかし、ラウルを人質にとり、地下で一緒に生きていくことを強要した事で遂にファントムに愛想を尽かしてしまう。そんな彼女を見たファントムは身を引く決意を固め、ラウルとクリスティーヌをそのまま地上に返し自分はオペラ座から姿を消すのであった。
人間は、自分の殻から出ることを恐れ自分以外の考えや選択を疎むくせに、自分の知らない眩しい世界に憧れを抱き殻から出られない自分をも疎みながら生きている。という事だと思う。ファントムの場合は、普通に生活出来ないほどに醜い顔という自分を縛り付ける絶対的要因があり、私の様な平凡な人間とは比べ物にはならないかもしれない。しかし、誰しもいいと思っているからこそ自分がそう有るわけで、自分にないものに興味を抱くものの、それにチャレンジできない事から憎しみという感情に至るまで変貌を遂げるということは、珍しい事ではないと思う。
「風立ちぬ」は堀辰雄の代表作で、結核文学の最高峰に位置する小説。作者の堀辰雄は肺結核を患い、軽井沢で療養することも多く、そこを舞台とした作品を多く残した。
若妻節子が結核を患い、自宅での療養生活から始まる。結核は当時不治の病だったのでサナトリウムという隔離病棟で生活する。院長の診断で療養は1、2年という見通しとなり、節子の病状があまりよくないと院長から告げられる。
八ヶ岳にある高原診療所についた「私」は付添人用の側室に、節子は病室に入院する。院長に病院中でも2番目くらいに重症だと告げられる。9月に、病院中一番重症の17号室の患者が死に、次は節子かと恐怖と不安を感じた。
1935年の10月ごろからサナトリウムから少し離れたところで物語を考え、夕暮れに病室に戻る生活となり、節子との貴重な日々を日記に綴ってゆく。冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で答えた。
1936年12月1日、3年ぶりに節子と出会ったK村に私は来た。山小屋で去年のことを追想し、私が今このように生きていられるのも、節子の無償の愛に支えられているのだと気づき、ベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。
全編にわたって、ほとんどが心理描写と情景描写、という感じで、あまり動きはないように感じた。やわらかな文章なので優しくも物悲しいような印象を受け、妻節子の容態が悪化し発作が起こる描写が少なく、亡くなるシーンは一切描写されていないことには驚いた。これは、作者自身、そしてその妻が結核を患っていたので書けなかったのではないか、と考えている。一般的には「死のかげの谷」が素晴らしいと言われているが、私は冬の最後の場面が好きだ。いつ死んでしまうのかわからない焦燥感に駆られ、胸が苦しくなったが、感情移入がしやすく感動した。
1936年、シカゴ近郊のダウンタウン。若いイカサマ師ジョニー・フッカーは、ある日、誤って、大物のギャングロネガンの手下から金を騙し取ってしまう。この事件がきっかけになり、ジョニーの友人ルーサーが殺されてしまう。ジョニーは、復讐は詐欺でやると心に決め、ヘンリー・ゴンドーフの力を借りながら、ロネガンをひっかけることにする。ギャング、詐欺師、警察、FBI、謎の女。絶妙な脚本で話が進んで行く。この映画に関してはネタばれできないので、これ以上の内容は書けない。
『どうせやるなら、大きく騙せ!愛すべきイカサマコンビ、一世一代の大賭博!』というキャッチフレーズに惹かれて、手に取った。実際に観てみると、キャッチフレーズ通りでドキドキハラハラがとまらない。誰もが聞いたことがあるだろう60年代の音楽やノスタルジックな雰囲気が、緊張感溢れるスリル満点なシーンに絶妙にマッチしている。寒さの残るこの季節、家族みんなでこたつに入り、詐欺師のスリルを味わってみてはいかがたろうか。
いつの時代でも、どんな時でも、人は変化していく。それがいい事なのか、悪い事なのかはさておき、人は絶えず変化する。そんな人の心の変化を、明治40年代の日本を舞台に描いた小説がある。夏目漱石の「それから」だ。
主人公の代助という独身の青年が、ある時、自分は三千代という女性を愛しているということに気付く。三千代は、代助の学生時代からの友人である平岡という男の、妻だった。そして3年前、平岡に頼まれ、平岡と三千代の結婚の仲立ちをしたのは、代助だった。
社会的に許されない、しかし諦められない愛を自分の中に見出してしまった代助は、どうするべきかと悩む。そして、自分はその二人の仲を取り持つ前から、三千代を愛していたということに気付く。
3年前、代助は自分の想いを犠牲にして、平岡の望みを叶えた。しかし、年月を経て、道徳の退廃していく社会とともに、同様に変わってしまった彼が、平岡に体して本当にすまないと思うのは、平岡の妻を愛してしまったことより、その3年前の、自分が平岡に対して「義侠心」を抱いたことなのだった。
私は、歳月や時代とともに変化する登場人物や、その変化によって起こる様々な事象を「悲しい」と思った。どうにかして、その事象を避けられなかったのか、と。しかし、もし自分がその立場に立てば、やはり、それらのことをどうにもできないかもしれない。
この作品は、明治という激動の時代を背景に、そのような真情の変化を、美化せず、むしろ社会的・道義的に「悪」とされる感情でさえも、リアルに描く。そのため、読者の方も、共感や驚き、憤りなど、様々な感情を抱いて読むことができる。また、この小説の背景にある、その頃の日本の社会についても考えることができる。
禁断の愛に陥ってしまった代助は「それから」、最終的に、どう変化し、どのような行動に出るのか。ぜひ一度、読んでみてほしい。
2001年7月20日に日本で公開された、ジブリ・宮崎駿監督の作品のひとつ。これまでのジブリ作品の中でも、本作品は日本での映画観客動員数が最多。その勢いのまま世界へと飛躍し、世界各国で数々の名誉ある賞を受賞した。世界的にも有名な作品である。
主人公である10歳の平凡な女の子「荻野千尋」は、引っ越しの途中、両親とともに不思議の街へと迷い込んでしまう。そこで千尋は謎の少年「ハク」に導かれ、街の掟を破り豚になってしまった両親を救うべく「湯婆婆」が営む湯屋で働くことになる。躓きながらも働き手として懸命に掃除をする。オクサレ神と化してしまった河の主や拙い意思疎通しかはかることのできない「カオナシ」を救う。周りの人に支えられながら、千尋は自分の力で道を切り開いていく。
観客のターゲットは子供たちである。私自身、小学校時代に母に映画館へ連れて行ってもらい、この作品を鑑賞した。幼いながらに作品から何らかの「思い」を感じ取り、感動して涙したことを覚えている。宮崎駿監督は、「ハクが千尋にしたように、あなたに親切にしてくれる人はきっとあなたの周りにいる。子供たちがどのように受け取ってくれるかは分からないが、そういうことを感じてくれたら嬉しいと思いながらこの作品を作った」と話している。
何度見ても飽きが来ない独特な雰囲気や細かい設定の中に色々な楽しみ方がある。不思議の街と現世界とを繋ぐトンネルの入口の色の変化、湯婆婆との契約書に千尋が自分の名前を書くシーンの誤字、千尋が湯婆婆の双子の姉である「銭婆」に貰った髪飾りの描写など、登場するキャラクター達の表情・心情を読み取りながら、時間の経過に伴う情景描写の変化に注意して観てみるのも楽しい。また、千尋が現世界へ戻る時のハクの動きなど、行動から読み取れるキャラクター達の心情の変化にも注目したい。この作品を観たことのある人も、観なおしてみると、新たな発見や感動があるだろう。
周りの人々や環境に支えられ、自分が今ここに在ることに感謝したい。人との関わりや出会いの大切さを教えてくれる作品である。
家庭の都合で転校しなければならない千尋とその両親は、移動途中に不思議なトンネルを見つける。そのトンネルの向こうには見たことのないような大きな城や、その下に街がある世界があった。そこで豚になってしまった両親を助けるため、湯婆婆のもと、油屋で働く千尋と、彼女の手伝いをするハクの物語である。
ハクは千尋に「自分の本当の名前を教えてはいけない」と忠告し、湯婆婆のもとへ送り届ける。千尋は湯婆婆に渡された紙に名前を書くとき、荻野の「荻」という字をわざと間違えて書いて渡す。そのシーンが印象的である。私はこの作品を小学生のころに何度も見た。わざと間違えるというこの行動があるからこそ、千尋は最後まで元の名前を忘れなかったのだ。作りこみの深さに感動する。
最初からトンネルの向こうの世界に住んでいたハクは、本当の名前を忘れ、その世界から抜け出せない。それにもかかわらず、迷った千尋を助ける。彼女が困った時に励ます優しさは、知らない世界やシステムで不安になる視聴者を唯一安心させる要素であるように思われる。
結局、千尋はトンネルを抜けたときに向こうの世界で過ごしたことやハクとの思い出、そしてハクの存在すら忘れてしまう。小学生のころに鑑賞したときは、千尋が両親を助け、元の世界に戻ってよかった、つまりハッピーエンドで終わったのだと思った。しかし、今になって思えば、確かに元の世界に両親と戻ることが出来たが、ハクとは永遠に別れなければならなかった。別れた直後のハクのことを考えると、胸が痛む。この作品は一見ハッピーエンドに見えるが、実は見方を変えれば、どうしようも無いほど悲しいバッドエンドだったのではないかと思う。ハクは終始千尋のことを励ましたが、最後には全てなくなってしまう。あえてそのような終わり方にした宮崎駿は、最高の映画監督である。
ビリー・ボーンズという男が、宿屋の息子であり主人公であるジム・ホーキンズの宿屋に現れるところから物語は始まる。物語が進むと、ビリー・ボーンズは死ぬが、ジム、地主のトロリーニ、医者兼検事のリヴジー、一本足の元海賊シルヴァー、その他大勢の船員を連れて宝島に宝探しに行く。彼らは無事に宝島に辿りつく。シルヴァーと彼が連れてきた他の船員は、宝を一人占めするために反乱を起こす。幸運にもジムはその話を宝島に着く前に船の中で盗み聞きしていたので、ジム、リヴジー、トロリーニ、船長は宝島に着いたとき、難を逃れることができた。しかしそれから先もずっとジム側とシルヴァー側の戦いは続く。ジムはシルヴァーの人質にされる。彼らは船を取り合う。また、昔、ある海賊に宝島に置き去りにされた男ペン・ガンと出会う。様々な出来事があり、最後はどちら側が宝を得ることができるのか、そして無事に国へ帰れるのか、終始ハラハラドキドキさせられる。
私がこの物語の中で最も印象的だったのは、ジムがシルヴァーに人質にされている時のシーンだ。ジムが人質にされていると知って助けに来たリヴジーは、ジムに柵を飛び越えて脱出するように命じる。ジムはシルヴァーがどんなことがあっても自分との約束を破らなかったので、脱出を拒否した。私はこの勇気が凄いと思う。いくらシルヴァーが約束を守る男だからといって、ジムの命の保障はないわけで、そのまま残っていたら、殺される可能性は大いにある。それなのに脱出=シルヴァーを裏切る、と考えて人質のままでいることを決断した。私ならば、自分の仲間が助けに来てくれたら、間違いなく脱出するだろうし、他の人も大半はそうするだろう。彼ほど義理堅く勇気のある人間はそうそういない。
この物語では、ジムの知性、溢れんばかりの勇気、そして仲間を思い協力すること、時にハメを外すことの大切さを学べる。私生活に退屈・マンネリしている人は是非読んでほしい。一緒にジム達とスリル満点の大冒険へ出掛けよう!
中氏自身の少年時代を舞台に、自伝風に綴られた作品。夏目漱石も賞賛した中氏の代表作である。
作品は前篇と後篇にわかれ、前篇には幼少期が、後篇には中学進学後の話が綴られている。身の回りの世話をしながらたくさんの愛情を注いでくれた伯母、同年代の異性達とのたわいもないやりとりなど、病弱で引っ込み思案だった少年「私」が様々な体験・経験を通して成長していく様子が描かれている。
文章の中にしばしば子どもらしい素直な表現がある。子どもの視点ならではの純粋な心情描写や写実的な擬音語などにも注目して読むとおもしろい。また、情景描写の表現が繊細で、美しい。秀逸な文章表現に想像力を掻き立てられる。中氏が綴る文章を読みながら、不思議と自分の子供時代に戻ってきたかのような懐かしさに浸ることができる。この作品を読み終えたあとには、言葉では言い表し難い静かで柔らかな感動を覚えた。
しかしこの作品は、決して「大人から見た子供の世界を描いた作品」というようには表せない。それは大人が子供の視点で書いた作品と呼ぶにはあまりにもリアルで、まるで子どもが体験したことをそのまま文章化したかのような中氏の巧みな文章表現が、読者を惹きつけるからである。漱石は、この作品で中氏を「子どもの体験を子どもの体験としてこれほど如実に描きうる人は、実際ほかに見たことがない」と絶賛した。
そんな中氏が描く「子どもから見た子どもの世界観」をじっくり堪能したあとは、朗読などの表現活動に活用することも是非お勧めしたい。私自身もこの作品を読み終えたあと朗読に取り組み、作品に対する関心・理解を深めた。主人公「私」の心情の読み取り、情景描写の想像、主人公を取り巻く登場人物の性格分析や台詞の真意など、朗読をするにあたって改めて様々な角度から作品を見つめ直す。そうすると、最初に読んだ時とは異なる「銀の匙」の新たな一面が見えてくる。
この作品を通して日本語の美しさ、秀逸な文章表現から生み出される世界観・無限の可能性を体感していただきたい。この作品を読むと、日本語、日本文学を更に好きになれる。
ガリヴァー旅行記は、第一篇~第四篇からなるレミュエル・ガリヴァーの旅行記だ。
旅行記では、ガリヴァーは航海術やいろんな数学の分野、医学を勉強し、多くの航海で船医として船に乗っていた。
ガリヴァーが訪れた国は、リリパットという小人国、ブロブディンナグという大人国、ラピュータという空飛ぶ島、日本など。どの国もそれぞれ違いかわった国ばかりだ。だが、すべてに共通するところがある。それは、ガリヴァーが国や島に上陸するまでに、暴風雨に遭い、船が押し流されたり、船が真っ二つに壊れてしまったり、浸水したりと事故が起こるところだ。第三篇には、海賊に見つかってしまう。その海賊船の中には、日本人の船長も出てくる。
よく知られているのは第一篇の小人国のリリパット国の話だと思う。その話には、スウィストの思いが込められていると思う。話の中で、リリパット国とプレフスキュ国は、些細なことで戦争をして対立していた。そのことから、些細な出来事が大きな闘争になるということを、伝えたいのだと思う。
また、第四篇では、ガリヴァーの祖国のイギリスことが多く語られている。
このように、第一篇から第四篇ひとつひとつ著者のスウィストの思いが、物語として国々で起きている。
ガリヴァー旅行記は、各篇話の内容が全く違うので、楽しめると思う。
いろんな形で、映画化もされていて、子どもから大人でも面白くなれ、ガリヴァー旅行記の世界観を想像できると思う。そして、日本のことも書かれていて、自分が住んでいる国のことがかかれていて、とても親近感がわいた。
「言語芸術学科」学生主催のネットラジオ局スタートのお知らせです。(本格的なスタートは4月になります。)これ、「21世紀型」アプローチの一つです!!
現在すでに数名の学生さんから参加表明の連絡をいただいております。いや、すごいなあ。正直なところ驚いております、はい。やはりこの学科の学生さんは、クリエイティブな活動に興味があるんでしょう。
今月か来月には、何か学生さんと発信したいなとおもっています。
とりあえず、こちら↓のブログを時々見に来てくださいませ。
「言語芸術学科ネットラジオ局ブログ」