2013年1月アーカイブ
「点と線」は多くの賞を受賞する作家“松本清張”の推理小説としては処女長編にあたる作品である。社会派推理小説とよばれ、推理小説のブームをまきおこした作品でもある。
安田辰郎は東京にある料亭「小雪」の常連である。ある日、安田は料亭の女中2人を食事に誘い、その後に東京駅まで見送ってもらった際にある人物を見た。それは料亭で安田の係りをしているお時であった。お時は若い男性と話しながら九州の博多行の特急に乗り込んでいった。その数日後、お時は若い男・佐山憲一と香椎の海岸で死体となって発見された。2人は情死と思われた。だが、博多のベテラン刑事・鳥飼重太郎はこれを事件と考え、1人で捜査をすることにした。一方、佐山は社会をにぎわしている汚職事件の関係者であった。そしてその事件を追っていた本庁の刑事・三原紀一は九州に出向き鳥飼に出会う。2人は安田を殺人の容疑者として追及した。しかし、安田には完璧なアリバイ があった。三原はアリバイを崩すべく自らの足で捜査を始めるのであった。
この作品で印象的なのは何と言っても“アリバイ崩し”である。アリバイという壁に亀裂が入ったかと思うとまた次の証拠が出てきて振出しに戻るという事の繰り返し。よく計算されている。特に列車の時刻表を使ったトリックはとても面白い。汽車の出入りする駅のホームでの見えるはずのない汽車が4分間だけ見ることができるという所などよく考え込まれている。また舞台が北海道から九州まで広いことが安田のアリバイを崩すのを困難にする要因の一つになっている。事件が起きたのは福岡。安田は北海道に行っていた。これには三原も読者も混乱させられる。そして、三原の視点で進んでいく話では、安田のみ注目しているため読者は安田が犯人にしか見えない。だが、完璧すぎるアリバイの前では安田は白にしか思えない。
公共交通を使ったトリック。崩せないアリバイ。意外な犯人たちの関係。
推理小説好きの人もそうでない人もぜひとも読んでもらいたい作品である。
この本は夏目漱石が「きれいだ、描写が細かく、独創がある」と称賛した中勘助の珠玉の名作である。主人公は書斎の本箱の引出しにしまってある小箱から銀の小匙を取り出した。この小匙は体が弱かった主人公の小さな口に薬を含ませるため、伯母が特別に探してきた匙である。体も弱く知恵の発達も遅れた人見知りの臆病な主人公は、医者の勧めで神田から空気の良い小石川に引っ越した。主人公は小石川で、伯母さんが連れてきた同い年の女の子と遊んでいるうち、様々な刺激を受けて知恵がつき体力も増した。
宮沢賢治の童話作品。宮沢賢治童話の代表作の一つとされている。これまで数度にわたり映画化やアニメーション化、劇場化された他、プラネタリウム番組も作られている。
貧しい家に生まれ、かつては仲がよかったカムパネルラとも距離が遠くなり寂しく孤独な生活を送っていたジョバンニ。そんなジョバンニは銀河のお祭りで一枚 の切符を手に入れる。一人で星空を眺めていた時、ジョバンニは空に何かが流れたかと思うと、眩しい光に包まれた。気がつくと銀河ステーションに立ってい て、目の前には汽車があった。そこからジョバンニとカムパネルラの不思議な旅が始まる。 旅の中では、化石を発掘し、昔存在した植物や動物を証明するために動いている人たちがいる場面、過去に起きた事件や出来事に関わる人々が次々に現れる場 面、またその人々が自分の天国で汽車を降りていく場面などがあるが、一つ一つどの場面を取っても宮沢賢治独特の発想と想像が詰まっている。また、比喩や擬 態語などの使い方がとても上手く、綺麗な言葉たちが、共に私たちを旅へ連れていってくれるような、そんな作品である。
その中でも、ジョバンニが汽車を降りずに現実の町に戻ってこられたことが私にはとても感慨深く、不思議であった。私はそこで、お祭りの後川に遊びに行き、 そこで溺れかけていたカムパネルラがお別れと本当の気持ちをジョバンニに伝えるために一緒に旅へ連れて行ったのだと思う。また、その中でジョバンニがカム パネルラに一度渡した切符をカムパネルラが返すことで、ジョバンニを孤独から助けたのだとも思う。
私はこの本を読んで、友情の素晴らしさを学び、常に相手の立場や気持ちを考えるようになった。この本は読者それぞれの世界観を広げてくれるに違いない。いつか私に子どもができたら、この作品の中へ連れて行ってあげたいと思う。
「恩讐の彼方に」は了海(禅海和尚)をモデルとした短編小説。
市九郎(のちの了海)は主人である中川三郎兵衛を殺してしまい、かねてから通じていた主人の愛妾(あいしょう)であるお弓とともに逃げ、悪事を重ねて生計を立てていくようになる。この際中川家は家事不取締として、家は取り潰される。
ある日、追剥を続けるお弓に恐れを抱いた市九郎はお弓のもとを去り、美濃の浄願寺で己の罪をすべて懺悔した後に出家し、名前を了海と改め仏道修行に励みはじめる。そして、自分の道心が定まってもう動かないのを自覚すると、師の許しを得て諸人救済をするための旅に出る。自分の犯した罪を償いたいと思っていた了海は、毎年多くの人が足を滑らせ落下し死んでしまうという絶壁へと辿りつき、絶壁をくりぬいて道を通じることで人の命を救うことを決心する。里人に協力を仰ぐが全く相手にされず、了海は単独で工事に取り掛かる。
了海が槌を振り続けて18年目、二分の一まで穴は掘り進められた。里人も本気で協力をし始める。19年目、かつて殺めた主の息子の実之助が父の仇の市九郎を訪ねてくる。了海は斬られることを望むが、石工たちは工事が完成するまでは、と了海と実之助を押しとどめる。やがて、了海が槌を振い続ける姿に胸を打たれた実之助は、工事に参加していく。21年目、ついに貫通し、約束通り自分を討てという了海に実之助は仇討の心を捨て、二人で感激の涙を流す。
授業で習った作家だったが、作品は読んだこともなく、代表作も知らなかった。どんなに悪事を重ねても、死をもって償うことだけが償いではない、と思い知らされた。読みやすいので読書が苦手な人にも向いているのでは、と思う。また、場面も大分県とわりと近くなので親近感を持って読むことができた。一度青の洞門を訪ねてみたいと思う。この「恩讐の彼方に」を知っているか否かでそこを訪れる喜びもまた、違うのではないかと思うとワクワクする。
20数カ国語にも翻訳され世界中で愛されている阿部公房の『砂の女』である。
主人公は、学校の教師として働く31才のありふれた地味な男性である。作中でも名前で呼ばれることはなく、「男」や「お客さん」などと呼ばれており、どこにでも居る様なごく普通の人間として読者に親しんでもらうことを作者は意図している様に思われる。
彼は、ある日休暇を利用して趣味の昆虫採集を目的に一人で旅行に出掛ける。そこで出会った老人に声を掛けられ、近所の民家に泊めてもらえることとなるのだが、案内された家は想像を絶するものだった。その家の建っているところと言ったら、砂地のくぼみの中にある部落の一番隅で、くぼみの深さはその家が縦に三つ程入るくらいであったから、梯子を使わなければたどり着けない程である。やっとのこと辿り着いた家もひどいもので、壁は剥げ落ち畳はほとんど腐る一歩手前で、歩くと濡れたスポンジを踏むような音をたてた。そこで彼の世話を任されたのが“砂の女”であった。それから女と老人達は手を組み、必死に彼をその部落に留めようとする。村人たちの行動はエスカレートし、逃げ出そうとする彼を瀕死の状態にまでする程だった。そんなところでの生活に耐えられるはずもなく、彼は何度か逃亡を試みるのだが、ことごとく失敗に終わる。そして、彼は仕方なく女と穴の中での生活を共にしていくのだが、その内に、穴の外での自由を求める気持ちより穴の中の生活での充実感のほうが大きくなっていく。そんなある日、突然彼に逃亡の絶好のチャンスが訪れる。しかし、彼は穴の中に留まることを選ぶのであった。
作者はこの作品で、人間は常に憧れというものを抱きながらも自分の置かれた環境に順応するという事を言いたかったのであろうと思う。作者の阿部公房は比喩表現が豊かで、とても生々しいのが特徴である。この作品を読んだときも、残酷な場面が的確に描かれていて心をえぐられたが、もっと深く入り込みたいと思わされた。私自身も、田舎に住んでいたことがあり、店も少なく交通の便も決して良くはなく、今振り返ってみると「よくあんな所で生活できたなあ」と思うのだが、当時は、福岡の方が「人で溢れかえっていて騒がしい」とゾッとしていたことを思い出した。人間は皆現状に満足はせず、常に憧れを抱きながらも、それなりに自分の置かれた環境に順応し楽しく生きているのだと思わされたのと同時に、この貪欲さがあってこそ人類は今日までの発展を遂げたのだとも思った。
浪漫主義文学の先駆者であり 活発な評論活動で知られる森鴎外が、54歳の時に書いた本作は、『安楽死』と『自足(自分で自分の必要を満たし足ることを知ること)』をテーマにしたものである。
主人公の喜助(きすけ)は、自殺を図り絶命寸前の弟に「自分を殺してほしい」と頼まれる。喜助は、弟の頼みのまま殺してしまい『弟殺し』の罪で遠島の刑を申し渡される。彼は、護送舟「高瀬舟」の上で、同心庄兵衛に自分の心境を聞かれ語る。庄兵衛は、喜助の告白を聞くことによって、喜助の自足の境地を知り感嘆すると同時に、彼の「殺し」が罪なのかどうかという疑問を抱く。
現代の観点から見れば、喜助の行為は、自殺幇助という列記とした犯罪であろう。しかし、鴎外の時代には自殺幇助という概念は存在せず、喜助は弟を殺した『人殺し』として裁かれる。喜助のとった行動は果たして正当だと言えるのだろうか。
私は喜助の行動は正当なものではないと考える。喜助のように、私にも弟がいるが、その弟が自殺を図り苦しんでいる姿を目の当たりにしたら、まず、弟を助ける。日頃顔を合わせれば喧嘩ばかりするような弟ではあるが、自分の弟に代わる人はいないので、何も考えず本能のままに弟を助けるだろう。喜助と喜助の弟、2人のおかれた境遇が決して良いものとは言えないけれど、私が喜助であったならば、弟に「自分を殺してくれ」とどんなに頼まれたとしても絶対に殺さない。とは言え一方では、喜助の行動は正当なのではないか、という考えもある。同心の庄兵衛は喜助の行動を、弟をこの世の苦しみから救うためにと、弟当人の最後の望みに力添えしただけなので、罪には問われないのではないかと考えている。
喜助も喜助なりに考えてとった行動だった、と言ってしまえばそこまでだが、実際にこの物語を読んでみて、友人との高瀬舟話に花を咲かせてみるのはいかがだろうか。
「百読百鑑」レビュー
本学科を選んだ学生さんは本好きの方ばかりです。私たちスタッフは、そんなみなさんと本の話で盛り上がれるのでとてもうれしく思っています。大学だからそれは当たり前と思われるかもしれませんが、実際はなかなか作れない環境です(三十年近く大学で働いていて実感します)。本当にうれしいな。
さて、そんな本好きの学生さんにとっては、次のレベルの話となりますが、私たち学科スタッフには、教養の基礎としてどうしても触れておいて欲しい作品があます。学科は、それらの作品を、「百読百鑑」というタイトルをつけて、リストアップしています。これは、百冊の本と百の映画・演劇の鑑賞という意味です。
「言語芸術学科TODAY」では、<「百読百鑑」レビュー>というものがこれからアップロードされていきます。これは、2013年度入学の言語芸術学科の学生さんが、「百読百鑑」リストから作品を選び、その選んだ作品について書いたレビューです。
どうぞ楽しんでください。
言語芸術学科新入生のみなさんへ
言語芸術学科英語担当の上田です。
以前も書いたのですが、私の専門分野はStylisticsで、英語小説の文体を研究しています。最近はそれに飽き足らず、日本語のオーディオドラマの制作などをしております。昔はラジオドラマなんて呼ばれていたものなんですが・・・とにかく、音だけによるドラマのことです。毎週5分程度のものをインターネットに配信しておりまして、今年で4年目となりました。
4月より言語芸術学科がスタートしますが、この活動を少し本格的なものにして、以下のような内容のネットラジオを学生さんと作ってみたいと思っています。
<番組内容> 基本的には学生さんと計画します。
ラジオドラマ
学生さんがDJの学科の番組
学生さん主体のインタビュー番組
学科からのニュース
など。
みなさんの中で、もしこういったことに興味がある方がいらっしゃったら、2月10日までにosamu?fukujo.ac.jp(上田のメルアドです。?を@に置き換えてください)までご連絡いただけますか?
もちろん興味のある方だけで結構です。参加希望者が一人でも二人でもいて、二月か三月に具体的な活動が始められそうでしたら、計画を立てたいと思います。