この本は夏目漱石が「きれいだ、描写が細かく、独創がある」と称賛した中勘助の珠玉の名作である。主人公は書斎の本箱の引出しにしまってある小箱から銀の小匙を取り出した。この小匙は体が弱かった主人公の小さな口に薬を含ませるため、伯母が特別に探してきた匙である。体も弱く知恵の発達も遅れた人見知りの臆病な主人公は、医者の勧めで神田から空気の良い小石川に引っ越した。主人公は小石川で、伯母さんが連れてきた同い年の女の子と遊んでいるうち、様々な刺激を受けて知恵がつき体力も増した。
日清戦争が始まり大和魂礼賛の風潮が広がった。しかしこれに対して主人公は、先生や兄から押し付けられる教育に反抗的な態度をとるようになる。そのころお寺の女の子と仲良くなって自由に寺に出入りし、気のいい貞ちゃんを先生にして凧揚げや蝉取りをして遊んだ。やがて主人公は中学に進学したが、貞ちゃんは奉公に出たため二人は離れ離れになる。
あるとき母代りだった伯母を久しぶりに訪ねると目も耳も不自由になっていた。主人公は痩せこけた伯母を、これが見納めだという気持で眺めた。翌年の夏休み、伯母と同郷の花売りのお婆さんにお世話になりながら友人の別荘に一人で滞在した。その友に嫁いだ姉さまがその別荘に立ち寄って幾日か一緒に過ごす。その間主人公はなるべく顔を合わせないようにして、別れの挨拶も聞こえないふりをして黙っていた。どうして一言も挨拶をしなかったのだろう。肌の冷えるまで花壇に立ち尽くして、月が山の向こうからさしかかるころになってようやく部屋に帰った。そして、姉さまが置いて行った水蜜桃を手の平で包むように唇に当て、甘い匂いをかいだ。
表現が非常に細かく、その場の雰囲気を想像しやすい。また、主人公の成長の様子がわかりやすく、成長を見守りたい気持ちになる。主人公の名前はなく、「私」で描かれた、少年の自伝的小説になっている。