2013年01月24日
教員コラム7 「福岡と関西」3 二階堂整
Column7 「福岡と関西」連載第3回(最終回)
さて、福岡の若年層の関西・関西弁に対す好感度の高さは、福岡の若者が話す言葉にどんな影響を与えているのでしょうか。2009年度から2011年度は「若者の音調の全国的変化」のプロジェクトにかかわりました。全国で若者に共通する音調の変化が起こってきているのではないかという仮説のもと、北海道・東京・福岡・鹿児島で調査を実施しました。僕自身は、若者の発話に一種の省エネ化が起こってきているのではと睨んでいるのですが、それはさておき、次のような場面がありました。
調査では、例えば、福岡の大学生に「広島のお土産をたくさんもらった」という文章を読んでもらい、その音声・音調を分析します。最初は書いてあるそのままで、次に、「くだけた場面を想像して、方言で」とお願いすると、「たくさん」の部分をかなりの大学生が「めっちゃ」に変えるのです。「めっちゃ」を使うのは、もともと関西です。それが若者を中心に全国で広がりつつあるのですが、福岡ではかなり浸透しているのが実感できます。福岡の若者にとっては、「たくさん」や「とても」は「めっちゃ」でいうのが普通の言い方という意識かもしれません。
しかし、地元福岡なら「たくさん」の部分は、「ばり」や「ちかっぱ」(力一杯)などとなるはずのところです。この2つは、程度副詞「とても」に相当する言い方で、福岡を中心とした地域で使用される方言です。しかも福岡の若い人が生み出し、広がったものです(福岡の年輩の方に、該当する言い方を尋ねると「相当」と回答があります)。こうした方言を「新方言」とよびます。このように、方言は、必ずしも年輩の方のものではなく、若い人が作り出す方言もあるのです。
2001年度から2003年度まで談話の文法機能の研究をしました。大学生二人組に1時間ほどおしゃべりしてもらい、ある文法項目を調査する方式です。ある組では、1時間の談話の中に、「とても」に相当する言い方として、「ばり」が5回、「めっちゃ」が2回、「むちゃくちゃ」1回、「えらい」1回、「かなり」1回、「すごい」1回が出てきました。すでに「めっちゃ」が顔をのぞかせてますが、主力は福岡の新方言「ばり」でした。
約7年後の音調の調査は同じ条件ではないので、比較するには注意が必要ですが、調査時に、ほとんどの若者がすぐに「めっちゃ」と口をついて出てくる状態でした。関西・関西方言への好感度の高さがここまでの現象を生んだのだと思われます。
以上、3回にわたって、コミュニケーションの問題を「福岡と関西」というテーマで述べてきました。大学は高校までと違って、「不思議」を追求するところです。その「不思議」は皆さんの身近なところにころがっています。新学科では、様々な分野の教員が、皆さんと「不思議」を見つめ、「不思議」を追求していきたいと待っています。(二階堂整)
投稿時間:2013年1月24日 11:13 | 固定リンク
2013年01月24日
「百読百鑑」レビュー 『銀の匙』中勘助 by メイ
この本は夏目漱石が「きれいだ、描写が細かく、独創がある」と称賛した中勘助の珠玉の名作である。主人公は書斎の本箱の引出しにしまってある小箱から銀の小匙を取り出した。この小匙は体が弱かった主人公の小さな口に薬を含ませるため、伯母が特別に探してきた匙である。体も弱く知恵の発達も遅れた人見知りの臆病な主人公は、医者の勧めで神田から空気の良い小石川に引っ越した。主人公は小石川で、伯母さんが連れてきた同い年の女の子と遊んでいるうち、様々な刺激を受けて知恵がつき体力も増した。
日清戦争が始まり大和魂礼賛の風潮が広がった。しかしこれに対して主人公は、先生や兄から押し付けられる教育に反抗的な態度をとるようになる。そのころお寺の女の子と仲良くなって自由に寺に出入りし、気のいい貞ちゃんを先生にして凧揚げや蝉取りをして遊んだ。やがて主人公は中学に進学したが、貞ちゃんは奉公に出たため二人は離れ離れになる。
あるとき母代りだった伯母を久しぶりに訪ねると目も耳も不自由になっていた。主人公は痩せこけた伯母を、これが見納めだという気持で眺めた。翌年の夏休み、伯母と同郷の花売りのお婆さんにお世話になりながら友人の別荘に一人で滞在した。その友に嫁いだ姉さまがその別荘に立ち寄って幾日か一緒に過ごす。その間主人公はなるべく顔を合わせないようにして、別れの挨拶も聞こえないふりをして黙っていた。どうして一言も挨拶をしなかったのだろう。肌の冷えるまで花壇に立ち尽くして、月が山の向こうからさしかかるころになってようやく部屋に帰った。そして、姉さまが置いて行った水蜜桃を手の平で包むように唇に当て、甘い匂いをかいだ。
表現が非常に細かく、その場の雰囲気を想像しやすい。また、主人公の成長の様子がわかりやすく、成長を見守りたい気持ちになる。主人公の名前はなく、「私」で描かれた、少年の自伝的小説になっている。
投稿時間:2013年1月24日 10:52 | 固定リンク
2013年01月23日
「百読百鑑」レビュー 『銀河鉄道の夜』宮沢賢治 byチャーシュー小力
宮沢賢治の童話作品。宮沢賢治童話の代表作の一つとされている。これまで数度にわたり映画化やアニメーション化、劇場化された他、プラネタリウム番組も作られている。
貧しい家に生まれ、かつては仲がよかったカムパネルラとも距離が遠くなり寂しく孤独な生活を送っていたジョバンニ。そんなジョバンニは銀河のお祭りで一枚 の切符を手に入れる。一人で星空を眺めていた時、ジョバンニは空に何かが流れたかと思うと、眩しい光に包まれた。気がつくと銀河ステーションに立ってい て、目の前には汽車があった。そこからジョバンニとカムパネルラの不思議な旅が始まる。 旅の中では、化石を発掘し、昔存在した植物や動物を証明するために動いている人たちがいる場面、過去に起きた事件や出来事に関わる人々が次々に現れる場 面、またその人々が自分の天国で汽車を降りていく場面などがあるが、一つ一つどの場面を取っても宮沢賢治独特の発想と想像が詰まっている。また、比喩や擬 態語などの使い方がとても上手く、綺麗な言葉たちが、共に私たちを旅へ連れていってくれるような、そんな作品である。
その中でも、ジョバンニが汽車を降りずに現実の町に戻ってこられたことが私にはとても感慨深く、不思議であった。私はそこで、お祭りの後川に遊びに行き、 そこで溺れかけていたカムパネルラがお別れと本当の気持ちをジョバンニに伝えるために一緒に旅へ連れて行ったのだと思う。また、その中でジョバンニがカム パネルラに一度渡した切符をカムパネルラが返すことで、ジョバンニを孤独から助けたのだとも思う。
私はこの本を読んで、友情の素晴らしさを学び、常に相手の立場や気持ちを考えるようになった。この本は読者それぞれの世界観を広げてくれるに違いない。いつか私に子どもができたら、この作品の中へ連れて行ってあげたいと思う。
投稿時間:2013年1月23日 14:11 | 固定リンク
2013年01月21日
「百読百鑑」レビュー 『恩讐の彼方に』菊池寛 by 17
「恩讐の彼方に」は了海(禅海和尚)をモデルとした短編小説。
市九郎(のちの了海)は主人である中川三郎兵衛を殺してしまい、かねてから通じていた主人の愛妾(あいしょう)であるお弓とともに逃げ、悪事を重ねて生計を立てていくようになる。この際中川家は家事不取締として、家は取り潰される。
ある日、追剥を続けるお弓に恐れを抱いた市九郎はお弓のもとを去り、美濃の浄願寺で己の罪をすべて懺悔した後に出家し、名前を了海と改め仏道修行に励みはじめる。そして、自分の道心が定まってもう動かないのを自覚すると、師の許しを得て諸人救済をするための旅に出る。自分の犯した罪を償いたいと思っていた了海は、毎年多くの人が足を滑らせ落下し死んでしまうという絶壁へと辿りつき、絶壁をくりぬいて道を通じることで人の命を救うことを決心する。里人に協力を仰ぐが全く相手にされず、了海は単独で工事に取り掛かる。
了海が槌を振り続けて18年目、二分の一まで穴は掘り進められた。里人も本気で協力をし始める。19年目、かつて殺めた主の息子の実之助が父の仇の市九郎を訪ねてくる。了海は斬られることを望むが、石工たちは工事が完成するまでは、と了海と実之助を押しとどめる。やがて、了海が槌を振い続ける姿に胸を打たれた実之助は、工事に参加していく。21年目、ついに貫通し、約束通り自分を討てという了海に実之助は仇討の心を捨て、二人で感激の涙を流す。
授業で習った作家だったが、作品は読んだこともなく、代表作も知らなかった。どんなに悪事を重ねても、死をもって償うことだけが償いではない、と思い知らされた。読みやすいので読書が苦手な人にも向いているのでは、と思う。また、場面も大分県とわりと近くなので親近感を持って読むことができた。一度青の洞門を訪ねてみたいと思う。この「恩讐の彼方に」を知っているか否かでそこを訪れる喜びもまた、違うのではないかと思うとワクワクする。
投稿時間:2013年1月21日 19:58 | 固定リンク
2013年01月20日
「百読百鑑」レビュー 『砂の女』阿部公房 by ぴーちこ
20数カ国語にも翻訳され世界中で愛されている阿部公房の『砂の女』である。
主人公は、学校の教師として働く31才のありふれた地味な男性である。作中でも名前で呼ばれることはなく、「男」や「お客さん」などと呼ばれており、どこにでも居る様なごく普通の人間として読者に親しんでもらうことを作者は意図している様に思われる。
彼は、ある日休暇を利用して趣味の昆虫採集を目的に一人で旅行に出掛ける。そこで出会った老人に声を掛けられ、近所の民家に泊めてもらえることとなるのだが、案内された家は想像を絶するものだった。その家の建っているところと言ったら、砂地のくぼみの中にある部落の一番隅で、くぼみの深さはその家が縦に三つ程入るくらいであったから、梯子を使わなければたどり着けない程である。やっとのこと辿り着いた家もひどいもので、壁は剥げ落ち畳はほとんど腐る一歩手前で、歩くと濡れたスポンジを踏むような音をたてた。そこで彼の世話を任されたのが“砂の女”であった。それから女と老人達は手を組み、必死に彼をその部落に留めようとする。村人たちの行動はエスカレートし、逃げ出そうとする彼を瀕死の状態にまでする程だった。そんなところでの生活に耐えられるはずもなく、彼は何度か逃亡を試みるのだが、ことごとく失敗に終わる。そして、彼は仕方なく女と穴の中での生活を共にしていくのだが、その内に、穴の外での自由を求める気持ちより穴の中の生活での充実感のほうが大きくなっていく。そんなある日、突然彼に逃亡の絶好のチャンスが訪れる。しかし、彼は穴の中に留まることを選ぶのであった。
作者はこの作品で、人間は常に憧れというものを抱きながらも自分の置かれた環境に順応するという事を言いたかったのであろうと思う。作者の阿部公房は比喩表現が豊かで、とても生々しいのが特徴である。この作品を読んだときも、残酷な場面が的確に描かれていて心をえぐられたが、もっと深く入り込みたいと思わされた。私自身も、田舎に住んでいたことがあり、店も少なく交通の便も決して良くはなく、今振り返ってみると「よくあんな所で生活できたなあ」と思うのだが、当時は、福岡の方が「人で溢れかえっていて騒がしい」とゾッとしていたことを思い出した。人間は皆現状に満足はせず、常に憧れを抱きながらも、それなりに自分の置かれた環境に順応し楽しく生きているのだと思わされたのと同時に、この貪欲さがあってこそ人類は今日までの発展を遂げたのだとも思った。
投稿時間:2013年1月20日 23:23 | 固定リンク
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