2012年10月10日
心理学と宗教に関する一考察 : 授業科目〈心理学概論B〉のある日の授業内容より
科学・技術が進歩して命の様子が解明されるようになりました。と同時に、命の操作が可能になりました。心理学を学ぶということは、命について、そして、生きることの意味について、真正面から捉え考えなおすということでもあります。
「心理学概論B」の2回目の講義では、出生前診断を受けるか受けないかを選択判断し、さらに各自の判断の根拠について考えました。「生まれてくる子どもが障害をこうむっているとわかったとき、私だったらどうするのだろう。産むのだろうか産まないのだろうか?」と自問自応しました。
正確な情報を数多く収集すればするほど、例えば、障害児が産まれる確率が厳密になれば、賢い判断ができるのでしょうか。収集した情報が多ければ「こんなはずではなかった」との後悔は少なくなるかもしれませんが、学びをとおして培う賢さは「こんなはずではなかった」を乗り越えようとするときに、何をどうしていいかわからないときにこそ発揮されます。学びが賢さに通じるかどうかは、日頃から「~とは、何か?」と物事の意味について自分なりに考えているかどうかにかかっているように思えます。
出生前診断について考えるとき、「命とは、何か?」という問いに取り組むことになります。命にかぎらず、意味をめぐる問いには、教科試験の問題を解く場合のように、誰にとっても正しいと言える答(正答)はありません。私たちは、「こんなはずではなかった」に遭遇して、心に余裕がなくなり、心が不安定になったとき、「~とは、何か?」と問わなくなります。そして、「~を、どうするか?」とやみくもに悩みがちです。
考えるときの心と悩むときの心は、異なっています。例えば、「家族とは何か?」「友人とは何か?」「仲間とは何か?」といった意味をめぐる問いは考えることになりますが、意味を抜きにして問題を解決しようとする「よい人間関係をつくるには、どうするか?」は悩みになってしまいます。
出生前診断を自問自応して、次のような対照的な聴講メモがありました。一方は『出生前診断を受けて、障害があると分かって、産むか産まないかを判断しないといけなくなる時に、障害があるから産まないというのは、あまりにも親の身勝手ではないかと考えてしまいます。そんな事をするより、分からないで産んだ方がいいと思います。』といったもので、もう一方は『受ける。その理由は、私が母親になるうえで色々な覚悟が必要だからです。もし子供に障害があるなら、その覚悟が必要です。生まれてくる子供を万全に迎えられるように診断を受けます。』といったものでした。両者は、出生前診断を「受ける・受けない」のいずれであるかの意見としては対照的ですが、両者とも「命とは、何か?」という問いに取り組んできており、畏怖・希望・愛しさといった命の意味について考えてきたことの表明です。
福岡女学院大学には、毎日のチャペル(礼拝)の時間があります。心理学の発想からすると、宗教の時間というより、心を鎮めて「~とは、何か?」をめぐって物事の意味を考える場が設けられていることになります。心に関心を向けている多感な者たちが、悩みに陥って「~を、どうしよう?」と右往左往しっぱなしにならないように、カリキュラムにも「~とは、何か?」を、とりわけ自らの行動・行為の意味を考え抜く賢い姿勢を培う場として、宗教(キリスト教)の授業があります。
(担当:長野)