2013年03月27日
2012年度卒業式と卒業パーティー
2013年2月13日から15日にかけて、福岡女学院大学の卒業式行事が行われました。
13日は卒業礼拝、14日は卒業式、そして15日は卒業パーティが開催され、
心理学科の卒業生、そして大学院の修了生が社会へと旅立ちました。
大学や大学院での得た学びとつながりをこれからの人生に役立てていただければ幸いです。
皆さんの門出を心よりお祝い申し上げます。
卒業おめでとうございます。
(卒業式と卒業パーティでは、学科全員ではありませんが、その場にいた学生と教員とで集合写真を撮りましたので掲載させていただきます。)
(担当:藤村)
投稿時間:2013年3月27日 18:30 | 固定リンク
2013年03月27日
「百読百鑑レビュー」『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』by黒まり
「ロード・オブ・ザ・リング」はJ・J・R・トールキンの「指輪物語」を原作とする実写映画である。アカデミー賞では13部門にノミネートされ、そのうち撮影賞や作曲賞など4部門で受賞された。また、作品は3部構成となっており、「旅の仲間」はシリーズ一作目となる。
始まりは、世界を支配するためにつくられたひとつの指輪。遠い昔につくられた世界を滅ぼす魔力を持つ指輪は、それを手にした者に強大な力を与える。そして指輪は様々な者の手へと渡っていった。長い月日がたち、指輪はホビットのフロド・バギンズの手に渡った。その指輪を手にしたことでフロドは指輪を狙うサウロンの手下から追われることとなった。魔法使いガンダルフの助言で裂け谷に向かったフロドはあらゆる種族を集めた会議に参加した。そこで、指輪を捨てる以外に世界を救う方法はないという結論がでた。だが指輪を捨てる方法はたった一つ、敵地にある滅びの山の火口に捨てること。その危険な旅にフロドは名乗りを上げた。そして、フロドをはじめとする9人の長く過酷な旅が始まった。
この作品は、3時間弱もある映画です。ですが、ストーリー展開のテンポがよくあっという間に感じます。また舞台である広大な自然が美しく、目を引かれると同時に壮大な背景が旅の過酷さをより引き立てているようです。音楽も作品にあっていて、ホビットの村では和やかで、戦闘時には緊張感のある音楽がより一層作品の中に観ている人を引き込みます。アクションシーンも見せ場で、戦闘はもちろん、敵から逃げるシーンなど一つひとつにハラハラさせられます。特に坑道を抜けるシーンでは、フロドよりもはるかに大きい怪物の戦闘、今にも崩れそうな足場での悪鬼からの逃走を観ていると息をするのを忘れてしまいます。
投稿時間:2013年3月27日 15:27 | 固定リンク
Column8 2013春 新学科が始まった
~ ”ジイチャン先生” のツブヤキ…~ 徳永至
民間放送から移ってきて8年目。去年65歳になって、役所から“前期高齢者”と呼ばれることになった徳永です。マスコミ系の科目の担当です。
1947年(昭和22年)生まれの、いわゆる“団塊の世代”で、みなさんとは孫&祖父でもおかしくない年の差があるので、前年度受け持った表現学科1年Gクラスでは、"ジイチャン(Gチャン)"先生と呼ばれていました。
メディア・コミュニケーション学科・一期生の皆さん、イラッシャイ!
表現学科の先輩たち、新年度もよろしく!
ところで、3月18日、大学近くの小学校の卒業式(正式には、卒業証書授与式)に出席しました。昔より校数が増えたからか、卒業生は2クラス67人でした。皆さんは、どんなでしたか?
団塊の世代の私の場合、1954年(昭和29年)に小学校に入学してみたら、上級生は1クラス50人程度で1学年3~4クラスなのに、こっちは1クラス60人近くて7~8クラスもあります。教室に全員着席すると後ろに空きがほとんどなく、全校集会は、講堂をあきらめて、もっぱら校庭(当時は運動場と呼びならわした)で開かれました。1年生の暮れ、福岡県筑紫郡曰佐村が福岡市と合併し、学校が村立から市立になって紅白まんじゅうをもらったのも、寒さこたえる運動場でした。翌年春には、分校ができて半分近くいなくなり、“催しは何でも運動場”ではなくなりましたが、教室の狭さは変わりませんでした。
戦争が終わった1945年8月15日を期して、“平和ニッポン”の再生に向かったころ、大人たちは戦時中に体力を使い果たしており、食糧不足と栄養失調にも悩んでいたはずなのに、僕たちが“平和の申し子”として大勢生まれてきました。乳児のうちに亡くなることも多かったといいますが、丈夫に産んでもらい、なんとか栄養を確保してもらったものが生きながらえ、しかも、還暦を過ぎた今日までこの人数存在するのですから、わが世代は、結構、心身ともにしぶといのだと思います。
なんでこんなことを言い出したかというと、団塊の世代は、時間がもっとゆっくり流れていた“戦前的アナログ・ローテク時代”と、生まれてみたらカラーテレビがあって、あらゆるデジタル機器にすぐ馴染むことのできる“21世紀的デジタル・ハイテク世代”の仲を取り持つ者として、老後を過ごさねば!と思うからです。教壇に立つのだからなおさらだ…とも思っています。
かつて私たちが就職、結婚する頃は、“核家族化の尖兵”というわけで“ニューファミリー”と持ち上げられ、戦後ニッポンの高度成長の終末期が“バブル”だとされたとたんに、“ニッポンをだめにした大バカ者たち”と酷評されました。大勢いるから、バカの含有率は他の世代と一緒でも、数では目立って多くなります。その代わり、才能豊かだったりリーダーシップが強力だったりする人物も、たくさん混じっていたはず。それなのに時々、納得のいかない扱いを受けては来ましたが、昭和30年台、僕らの小学生の頃の通学路には、田んぼや畑や豚小屋や鍛冶屋があり、普通に歩けば、子供の足でも15分ほどの道のりなのに、道草せずにはいられない“物や出来事”がいっぱいあったことを、そして、いつ今のような時代になったらしいかを、記憶が確かなうちに伝え残さねばならないと思っているのです。
僕が小学生の頃、通学路の小川のそばの鍛冶屋は、「♪しばしも休まず槌打つ響き、飛びちる火花よ、はーしる湯玉…」という昔の小学唱歌のままで、火花が降りかかりそうなほど近寄ると、節くれ立って筋骨隆々のかじ屋のおじさんから一喝されるので、入り口付近にしゃがみこんでは、鋤や鍬が出来上がる様を飽きず見入っていました。そのそばの小川というのは田畑のための用水路で、田植えに向けて田んぼに水がはいると、黒胡麻入りトコロテンといった風情のカエルの卵があらわれ、オタマジャクシ、子ガエル、親ガエルと育っていく。ころあいに育った頃には、ため池のザリガニ釣りのかっこうの餌になり、時には、理科で実習したカエルの解剖の、あぜ道での再現に使いました…。また、自宅の集落の氏神様の境内には、数本のツバキがあり、花のあとの実の、かたい殻を割って種を収穫し、近所の椿油加工所に持ち込むと、子どもの両手のひらに山盛りで、たしか5円ほどの稼ぎになりました。
こんな時代、福岡市の中心“天神ノ町”の岩田屋デパートの地下食品売り場では、イナゴやタニシの佃煮や、姿のまま真半分になったイノシシが、何のためらいもなく売られていました。
いま思い出してもキラキラする時代のあと、田植え直後の田んぼに赤旗が立ち、全校朝礼で校長先生が「田んぼの赤い旗は、ホリドールやパラチオンという強い農薬をまいたしるしです。子供には特に害がありますから、そうした田んぼに、はいってはいけません。また、登下校のときは、急いで通り抜けましょう。分かりましたね!」などと呼びかける日がやってきました。そして、この頃から数年後、農家だった母の里にいた馬1頭と牛1頭が、相次いでいなくなりました。更に数年後、母の里の集落一帯は、福岡市の副都心再開発のための区画整理事業にかかることになり、母方の祖父が地域の役をしていた関係で、率先して農地を明け渡し、離農しました。再開発は、いくつかの汚職事件を生み、10年を越す時間をかけて副都心完成に至りましたが、田んぼや畑が広がり、はなたれ小僧たちが駆け回っていた頃の面影は、ほとんど残っていません。
皆さんと皆さんの生まれ育ったところには、どんな思い出がありますか?
人の食糧になる様々な者たちの生涯を知っていますか?
TPPの問題をどう考えますか?
世の中は、分からないことや知らないことに満ちていますが、教室やフィールドで一緒に思い出し、一緒に考えましょう。
(徳永至)
投稿時間:2013年3月26日 16:29 | 固定リンク
交換留学生として韓国で過ごした10ヶ月
私は韓国の仁済大学に10ヶ月間留学をしました。そもそも留学をしたきっかけが大学1年の春休みに韓国に短期留学をし、韓国の文化や韓国人の情の厚さと温かさに触れたことで、長期滞在したいと思い交換留学を決意しました。留学する前までの期間は、天神サテライトで韓国語の授業を受けたり、外国語学校で韓国人の日本語チューターなどし、積極的に韓国と接点を持って語学だけでなく文化共有などしてきました。
いざ、留学してみると学んで来たはずの韓国語が通じなかったり、聞き取れなかったりと悔しい思いをたくさんしてきました。それでも挫けず、自分なりに工夫し勉強しました。後期になるとレベルも上がり、毎日予習や復習や課題に追われていました。経済学、心理学、教育学を韓国語でするのは、違和感はありましたが、韓国語だけでなく様々なことを勉強できたので前期よりも自分のためになる勉強でした。
授業は、ただ先生の話を聞くだけではなく、自分の意見を発言していかなければならないので最初の方は苦痛でした。韓国語能力だけでなく、今まで生きていた中での知識が必要になってくるからです。中国人の学生達は、自国に誇りを持っており、先生が中国に関して語弊を言うとすぐに反論をして修正します。自国の歴史や偉人にも詳しく堂々と発表し発言します。一方、私も含め日本人は自国に無関心で何もわかってない気がしました。先生から“日本ってこうだよね?”と質問されても、よく分からなかったり、むしろ先生の方が日本のこと詳しかったり…。中国人たちからは“自分の国のことなのになぜわからないんだろう?”という目で見られてました。恥ずかしい思いと情けない思いでいっぱいでした。他国に興味を持ってもいいけれど、まず先に自国のことを自信持って説明できるぐらいの知識を持たなければならないと思いました。こういう体験も日本にいたら、気づかなかったのだろうと思うと留学してよかったです。
遊びに関してもかなり交友関係は広がりました。韓国語を話せるようになったので様々な友人と話したり、遊んだりしました。日本人の送別会には多くの人達が来てくれて、ここで韓国人の友人といい関係を作れたんだと改めて感じた瞬間でした。2012年は特に日韓情勢が悪かったけれど、それとは関係なくみんな親切で“日本好き”と言ってくれて逆に私はここまでよく留学生に出来るだろうかと思うくらいでした。情が厚く親切過ぎるくらい親切でお互い悪口言い合える仲の友人が出来、ここで出会った友人は宝物です。最初に韓国に来たころは、みんな“留学生”という扱いでしたが、今は留学生ではなく“仁済大学の学生”として遊んでた気がしますし、友人からもそう言われました。
留学を通して様々な経験が出来ました。このような経験が出来たのも留学を行かせてくれた家族、辛くなったときはいつでも励ましてくれた友人、お互い発展のために協定校を結び、支えてくれた福岡女学院の先生たちには感謝がいっぱいです。
(3年生 Sさん)
投稿時間:2013年3月25日 16:03 | 固定リンク
2013年03月21日
【学生レポート】 沖縄ホテル研修の報告
私は今回、4泊5日の沖縄ホテル研修に参加させていただきました。この研修ではサービス業やホテルでの仕事に興味がある27人が参加し、事前にマナーやホテル業務についての講義を受けてから沖縄に向かいました。
研修はまず、ホテルの方々から座学でのガイダンスを受け、その後フロント・ベル、料飲、客室管理と3つのチームに分かれて実際に仕事を体験させていただきました。まず、私はフロント・ベルの研修を受けました。普段、私たちがお客様としてホテルを利用する時、一番関わるのがこの仕事のため、どのような内容か分かっていたつもりでしたがそれを上回るものでした。荷物を受け取ったり受付をしたりするだけでなく、お客様の車の移動や部屋の空き状況に応じてお客様に合った部屋を勧めたり、バースデーやウエディングでのサプライズの準備をしたりしていて観察力やその時々の臨機応変な行動が必要なのだと感じました。
料飲の研修ではレストランのホールスタッフの仕事と接客のロールプレイング、カクテル作りをさせていただきました。ロールプレイングでは普段、アルバイトでしているような接客ではなく、それ以上の注意力と気配り、そしてマナーを意識して行わなければならなかったので緊張しました。普段体験できないカクテル作りはとても良い経験になりました。
最後に客室管理の研修ではベッドメイキングを行いました。客室管理はほとんどお客様と接する機会はありませんが、どの業務にも負けずお客様が部屋で快適にリラックスして過ごせるように細かいところまで配慮していることが伝わりました。そのため、ベッドメイキングして終わりではなく、チェックマンという部屋の最終確認をする人がいて合格を貰わなければその部屋を商品として出せないとのことでした。この仕事をしている方々は一部屋25分程度で終わらせると聞いたときは本当に驚きました。
ホテル研修は2日間でしたが、残りの時間に今流行りの海カフェやひめゆりの塔、首里城、美ら海水族館など沖縄の文化や歴史を学び、そして現地の人達のあたたかさに触れることが出来ました。
この研修に参加させていただいてサービス業と言ってもさまざまな職種があることを知りました。しかし、どの仕事もお客様に喜んでいただきたいという気持ちは同じであり、楽しんでもらったり時には感動していただいたり出来るような素晴らしい仕事だと改めて感じました。今後、この研修を学校生活だけでなくアルバイトや就職活動にも活かしていきたいです。(2年午頭さん)
▼現代文化学科Facebook
http://www.facebook.com/fukujogendai
投稿時間:2013年3月21日 11:34 | 固定リンク
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