末澤明子教授

授業では日本の古典文学、1年次必修科目の日本語コミュニケーシ技法を担当しています。ここでは、私の専門である日本古典文学を現代文化学科で学ぶ意味について、そして現代文化について考えてみます。

太宰府を流れる小さな川、藍染(あいそめ)川のそばに立つ「梅壺侍従の碑」は、一人の男性と二人の女性(一人が梅壺侍従)をめぐる室町時代の物語や能に基づいています。平安時代には「そめがわ」と呼ばれ、別なイメージの和歌が詠まれました。兵庫県の生田川にも伝承があり、「いくた」は「生きる」「いくたび」という連想を呼び、他の川も伝承・イメージがさまざまな文学、特に和歌を生みました。こういう土地を「歌枕」といいます。授業で話すと、学生は、調べれば他の川にも伝承があるのでは、と考えます。また、製造業に就職が内定したある学生は、内定式の折、「観世音寺は源氏物語に関係ありますね」と言われました。『源氏物語』玉鬘(たまかづら)巻には「観世音寺」の名が見え、太宰府の観世音寺境内にある苔むした碑にも「源氏物語玉鬘巻に......」と書かれています。このような知識は私たちの世界を広げるし、現代文化学科の多くの学生が希望する観光分野でも役立ち、教職を志す学生にも必要でしょう。

歌枕や観世音寺の碑は、それぞれの時代に古典がどのように受け止められてきたかを示し、各時代を知ることができます。最近の古典研究には、日本古典を東アジア世界の中で考える動向があり、『源氏物語』もその角度から新しい発見がなされています。東アジアを考えることは現代の特徴です。2008年は「源氏物語が記録で確認されて」、「源氏物語が世に出て」1000年、「源氏物語千年紀」と言われ、種々の催しが行われています。この動きも現代における古典の受け止め方の一つです。

『紫式部日記』には、1008(寛弘五)年11月1日、藤原公任(きんとう)という人が紫式部たちのいるところに「このあたりに若紫が控えていますか」声をかけた、と書かれています。紫式部が『源氏』「若紫」巻を書いたとみての、作中人物名による呼びかけです。親王誕生祝いの記事中にさりげなく織り込まれ、『源氏』の名はもう二箇所見えますが、これこそが『源氏』の作者が紫式部であること、1008年に若紫巻が確かに書かれていたことの根拠となるものです。当時、物語は娯楽と考えられ、作者が誰かは問題でなく、作者名が記録に残されることもありませんでした。『源氏』の作者が紫式部とは常識と思うかもしれませんが、実はそれほど自明のことではありません。これも授業で話しています。

自明と思っていることがそうではない、ということは多いものです。自分の知識の前提を問うこと抜きに学問は成立しません。常識は本当に常識なのか。日本の古典を学ぶときもその態度が必要です。従来も考えられていましたが、「多文化」「共生」といわれる現代世界の中で古典を学ぶとき、より自覚的でありたいと思います。自覚的であるのが現代文化ではないかと考えます。古典を通して時代を知り、自分の持っている前提を問う、そうして自分自身を知る。それは、「現代文化」を掲げる学科で学ぶ学生にとって、将来どの分野に進むとしても大切であり、文化の担い手となるための基本であると思います。

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