教員コラム「私が考える現代文化」

池田肇子教授(学科長)

2009年4月から難波征男教授より学科長職を引き継ぎました。この度は、人文学部再編を経て後、国語教職に特化する学科に在籍しながら英語を用いた諸科目を担当している者として、現代文化学科の特性を改めて熟考する機会となりました。

そこで、来年20周年を迎える人文学部にあって創設以来教育と研究に曲がりなりにも携わってきた教員としての、つらつらと蘇る感懐をまとめることから始めたいと思います。

1990年人文学部(所属は、英米文化学科でした)は、福岡県小郡市の田園のなかに忽然と建つ赤レンガ色の洋風校舎――まさしく「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台~♪」と歌われる情景で、それだけでも憧れの異文化を体現していたと思う――を舞台に、初代学長岩橋文吉先生のお言葉を拝借すれば、「文化の砦」から始まりました。当時の教職員は、それこそ出身はあちこちからの、私自身は砦に相応しかったがどうかは分からないけれど、それぞれ気概に満ち溢れて最初の夏は確か扇風機しかなかった研究室でも耐え忍んでいたものです。そして、アメリカ在住20年のチャプレンの指揮のもとで行なわれた様々なキリスト教関連行事が地元の方々を魅了して、チャペルが満員になる大盛況となり、また、小郡、福岡両市の公共施設での公開講演会が息もできないくらい聴衆で一杯になった日々が懐かしく思い出されます。

とまれ、生き残った私たちがこれからの女学院大学――特にわが所属する現代文化学科――に託すことはなになのか? しばし考えてみました。

卑近な例で恐縮ですが、小学高学年時に『小公女』や『赤毛のアン』などに出会った世代の一人としては、これら翻訳物語が描き出す情景が夢見る世界でした。当時の日本の少女ファッションは、中原淳一が主宰する『ジュニアそれいゆ』――最近、復刻版の出版が相次いでいる由――に掲載された手作りドレスに代表される、エレガント・カワイイものでした。私見では、これこそ前述の物語の少女たちも身に着けたであろうファッションの20世紀バージョンです。そこに感じられたのは、お行儀のよい――世の中のしきたりをきちんとわきまえた――、つつましいながらどこか自己主張している――自分の好きなことに他人の干渉は要らない――可愛い女の子でした。その後、受験期をひたすら乗り越え、共学の学校・大学・大学院と進んだ私は、実は、彼女たちのことはすっかり忘れてしまっていました。しかも、時代錯誤と謗られるのを覚悟であえて言うと、女だてらに、ユダヤ系男性作家なんかにのめり込んで、人生とは、人間とは、という頭が真っ白になりそうなテーマを追っていたのです。しかし、そのうち世の中はフェミニズムを口にする時代と変化し、人間である=女であるという、テーマも考慮することに、、、、。そして、行き着いた――いや、戻った――先にあったのが、かつての憧れの的であった少女物語であったというわけです。言わば、文学的還暦(変遷の回帰)です。

さて、かく言う私の(カラ)元気もあと残すところ何年もつか、という段階にきました。そこで、遺言めいて伝えておきたいことを、ここに記しておくのも一考かと思います。

そもそも、大学という組織の概念は、日本古来の伝統にはなく、西洋伝来のものでした。従って、教養教育、自由学芸(リベラルエデュケーション)のモデルは身近にはなかったのです。しかしながら、福岡女学院の場合は、幸いにも米国ミッショナリーの女性宣教師自らがその礎を築いた女子英語学校でしたから、モデルというよりも元祖に近い、と考えてよいのではないでしょうか。因みに、出版後100年を経た今でも愛読される『赤毛のアン』の訳者村岡花子女史は、東洋英和女学校のカナダ人宣教師によってこの原作を紹介されています。このような場合、私たちは、女子教育のパイオニアとしての意気地とスピリットを発信して行かねばならないでしょう。元祖であることの苦悩ももちろん承知の上で、この重圧にひるまず明朗闊達に進んで行きたいものです。

現代文化学科は、観光文化、交流文化、日本文化(国語教職)の三分野で構成されています。現在のところ入学志望者は観光分野に殺到している観がありますが、まずは三分野に均等に配分した諸科目をバランスよく履修して、これまでの受験勉強とは一味違った、多様な関心をもち、広く人間や社会を知ろうとする機会にしてください。学科では各種の準備講座、体験実習、インターンシップなどを設けて学生の便宜を図っていますが、それだけなら少し分かった風な就活学生になり兼ねません。企業が求めている女子学生像は、恐らく私たちが理想とする教育理念と合致したものでしょう。私たちは、しなやかな思考力を持ち、情操豊かな感性を自ら高め、いかなる時にも自主的に対応する能力を身に着けている学生を教育したいと願っています。

そして、私が現代文化学科を目指す方々に送りたいエールとは、学問という憧れの世界を追いつつ希望を持って、長い人生の指針となり得る自分自身の哲学を見つけなさい、というものです。

投稿者: HP担当者 日時: 2009.06.17 Wednesday 8:21 PM

日野資成教授

私は4歳まで青森県の弘前市に住んでいて、津軽弁をしゃべっていました。今でも、津軽弁を聞くと懐かしい思いがします。青森県青森市では毎年10月23日、「津軽弁の日」と題して、津軽弁による短歌や俳句、詩のコンクールが行われています。その入賞作品を紹介します。

「嫁さ来て しゅどさつかえで 嫁もらて 嫁さつかえで 終わるのだべか」。

標準語訳は、「嫁に来て 姑(夫の母)に仕えたかと思ったら、今度は自分の息子が嫁をもらってその嫁に仕えて、仕えてばかりで一生を終わるのだろうか」となります。ユーモアたっぷりの津軽弁和歌ですね。

私の書いた日本語学の教科書『ベーシック現代の日本語学』(ひつじ書房)が、いよいよ2009年4月に出版されます。ひつじ書房HP「これからでる本」にアクセスしてください。

http://www.hituzi.co.jp/books/438.html

これは、10年間私が福岡女学院大学で教えてきた講義をもとにして書いた本で、私の日本語学の講義のすべてで使えます。わかりやすく、しかも楽しく日本語を解説しました。冒頭で紹介した「津軽弁の日」の和歌は、第11章「社会言語学」に出てきます。

第8章「日本語文法」では、外国人に教える日本語文法を紹介しました。アメリカで日本語を教えていたとき、アメリカ人の日本語学習者から「『お湯を沸かす』はおかしい。『水を沸かす』が正しいのではないですか」と聞かれたことがあります。英語でもboil water(水を沸かす)だし、確かに沸かすのはお湯ではなく水ですよね。こんな質問をされたら、みなさんはどう答えますか。答えはこの本の第8章あります。

第12章「ことば遊び」では、私の作った親父ギャグや、「ころもへん」のつく漢字の覚え方などを紹介しました。同じく私の作った折り句和歌や年号記憶術もあります。みんなユニークで覚えやすいですよ。

方言も、日本語文法も、ことば遊びも、これまでの日本人が現代に伝えてきた財産であり、現代の日本文化といえます。現代文化はことばを抜きにして語ることはできません。私の講義では、現代文化を、日本語ということばをとおして考えます。

投稿者: HP担当者 日時: 2009.03.23 Monday 3:51 PM

末澤明子教授

授業では日本の古典文学、1年次必修科目の日本語コミュニケーシ技法を担当しています。ここでは、私の専門である日本古典文学を現代文化学科で学ぶ意味について、そして現代文化について考えてみます。

太宰府を流れる小さな川、藍染(あいそめ)川のそばに立つ「梅壺侍従の碑」は、一人の男性と二人の女性(一人が梅壺侍従)をめぐる室町時代の物語や能に基づいています。平安時代には「そめがわ」と呼ばれ、別なイメージの和歌が詠まれました。兵庫県の生田川にも伝承があり、「いくた」は「生きる」「いくたび」という連想を呼び、他の川も伝承・イメージがさまざまな文学、特に和歌を生みました。こういう土地を「歌枕」といいます。授業で話すと、学生は、調べれば他の川にも伝承があるのでは、と考えます。また、製造業に就職が内定したある学生は、内定式の折、「観世音寺は源氏物語に関係ありますね」と言われました。『源氏物語』玉鬘(たまかづら)巻には「観世音寺」の名が見え、太宰府の観世音寺境内にある苔むした碑にも「源氏物語玉鬘巻に......」と書かれています。このような知識は私たちの世界を広げるし、現代文化学科の多くの学生が希望する観光分野でも役立ち、教職を志す学生にも必要でしょう。

歌枕や観世音寺の碑は、それぞれの時代に古典がどのように受け止められてきたかを示し、各時代を知ることができます。最近の古典研究には、日本古典を東アジア世界の中で考える動向があり、『源氏物語』もその角度から新しい発見がなされています。東アジアを考えることは現代の特徴です。2008年は「源氏物語が記録で確認されて」、「源氏物語が世に出て」1000年、「源氏物語千年紀」と言われ、種々の催しが行われています。この動きも現代における古典の受け止め方の一つです。

『紫式部日記』には、1008(寛弘五)年11月1日、藤原公任(きんとう)という人が紫式部たちのいるところに「このあたりに若紫が控えていますか」声をかけた、と書かれています。紫式部が『源氏』「若紫」巻を書いたとみての、作中人物名による呼びかけです。親王誕生祝いの記事中にさりげなく織り込まれ、『源氏』の名はもう二箇所見えますが、これこそが『源氏』の作者が紫式部であること、1008年に若紫巻が確かに書かれていたことの根拠となるものです。当時、物語は娯楽と考えられ、作者が誰かは問題でなく、作者名が記録に残されることもありませんでした。『源氏』の作者が紫式部とは常識と思うかもしれませんが、実はそれほど自明のことではありません。これも授業で話しています。

自明と思っていることがそうではない、ということは多いものです。自分の知識の前提を問うこと抜きに学問は成立しません。常識は本当に常識なのか。日本の古典を学ぶときもその態度が必要です。従来も考えられていましたが、「多文化」「共生」といわれる現代世界の中で古典を学ぶとき、より自覚的でありたいと思います。自覚的であるのが現代文化ではないかと考えます。古典を通して時代を知り、自分の持っている前提を問う、そうして自分自身を知る。それは、「現代文化」を掲げる学科で学ぶ学生にとって、将来どの分野に進むとしても大切であり、文化の担い手となるための基本であると思います。

投稿者: HP担当者 日時: 2008.04.02 Wednesday 8:52 PM

難波征男教授 (現代文化学科長)

本学現代文化学科には、将来、エアライン関係やホテル業、旅行業を目指して学習している学生がたくさんいます。そこで、現代文化学科ではその希望が実現できるようにANA、JAL、西鉄、JTBやECCエアライン学院の協力を得て、新講座の設置、体験実習、インターンシップの開発等に努力しています。そのために企業と大学の間で、多くの話し合いをしました。

先ず企業の方々は、それぞれの社会的使命をもって仕事をされており、それを継承し発展させることができる若い学生を求めている。「学生生活を十分に満喫して魅力的な人柄を形成し、広い教養と意欲をもっている人を望んでいる。専門的スキルは二の次です」というのが、集約すれば彼らの意見でした。大学は学習し研究する所であって就職予備校ではありませんが、企業の人からこのような意見を拝聴すると、大学の研究や学生本来の学業を正しく理解されていることに意を強くいたしました。古典研究の私には、学生に古典の魅力を伝え、古典文献の解読能力を養う現代的意義を再確認する機会になりました。

現代文化学科は、観光文化・交流文化・日本文化(国語教職)の三分野で構成していますから、学生がこの三分野を各自の目標によってバランスよく学習すれば、専門的教養を身につけた魅力的な人柄を身につけることができるでしょう。昨年、中高の教職資格を取得した学生がフライト・アテンダントになりましたが、今後、このような学生が増えるのを願っています。

私の専門研究は中国古典、儒学の研究です。専門の儒学から「観光文化」を考えてみましょう。実は「観光」という語彙は、儒学の古典である『易経』「観」の卦に初めて登場するのですが、そこには「国の光を観る」と記されています。その意味は、一国の魅力的な光を観ることができる能力をもっている人は、国王から賓客として迎えられるというのです。つまり、故に「そのような人物になりなさい」というのです。要するに「観光」の目的は、異文化世界の魅力を見抜き、それを受容して自己の周辺世界をより幸福にできる人物になることだと述べているのです。観光と幸福、および人の育成が和合しているのです。

ご存知のように近年は「儒学ブーム」です。それに乗せられてか、私も昨年は中国や韓国で開催された国際学会で5回発表し、海外調査旅行も5回行きました。

主要なテーマは、地球温暖化や宗教戦争、心の不安や道徳的腐敗等、地球と人類の危機を回避するために、その知恵や行動方法を東アジアの儒学--特に「和」に求めるものです。「和」は平和、和睦、和解、和楽、柔和、和諧ですが、「和」を目的にしたダイナミックなプロセスを探求しようというものです。「和」は「同」とは違います。「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(『論語』)「和、実れば物を生じ、同なれば則ち継がず」(『国語』)というように和と同は違うのです。

この「和同論」は現代的課題だと思います。例えば、頻発している「いじめ」を考えて見ますと、一人ひとりの人格的尊厳から個性を認めあい、自己と他人の相違を認めた上で「和」を追求すれば幸福ですが、逆に利己主義から他人の相違を認めないで、「同じもの」を強制する「いじめ」が頻発しています。どうですか。古典を学び、現代文化の問題解決を、ともに考えようではありませんか。

投稿者: HP担当者 日時: 2007.10.11 Thursday 1:00 AM

吉田修作教授 (人文学部長)

私が現代文化について考えるようになったきっかけは、現代文化学科の発足にあります。そこで、はじめに、現代文化学科発足の経緯を簡単に述べておこうと思います。現代文化学科は2001年4月に表現学科とともに発足しました。それ以前の人文学部は、日本文化学科と英米文化学科の2学科で、キャンパスは小郡市にありました。現代文化学科はそれまでの日本文化学科の流れを汲みますが、それ以前に英米文化学科や短大に所属されていた先生方も入られ、新たな学科となったわけです。学科改編時、私は学科長でした。現代文化学科発足にあたり、学科会議などにおいて、先生方同士で現代文化をどのように捉えるかなどの議論をしました。

それまでの学科と現代文化学科の違いの1つは、観光文化分野(当初はコース)が設けられたことでした。私もそれ以前は、特に大学の授業において、観光文化というものを意識することはありませんでした。所属学科に観光文化分野が設けられたことで、必然的に自分にとって観光とは何かということが突き付けられることになりました。そのことを考えていくと、実は、私の専門分野の1つの民俗学で扱う「祭り」は、観光と関係が深いことに気づきました。そこで、現代文化学科の1年生対象の科目「生活文化論」では、九州を中心とした「祭り」を取り上げ、それらが地域の観光と結びつくことをテーマとし、2002年度の『入学案内』には「祭りと観光」というタイトルで、博多祇園山笠の紹介をしました。「生活文化論」は今でも、正月から1年間の年中行事である「祭り」を通して、生活・地域・観光などのつながりを考えています。

もう1つ、私の専門科目と現代文化との接点を見出すきっかけになったのは、宮崎駿監督のアニメ映画でした。特に「千と千尋の神隠し」は、その「神隠し」というタームが民俗学を踏まえているように、宮崎監督のアニメは民俗学の知識を基にした作品が多くあります。宮崎アニメは、日本文化学科の当時から学生の卒論のテーマにもなっていたので、学生と一緒に「千と千尋」などの宮崎アニメを分析していくことで、その現代的意義と民俗学の知識がミックスされた魅力に取り付かれていきました。

他の授業では、安倍晴明伝承を題材にした映画「陰陽師」、民俗学者柳田国男の「妖怪談義」などを基にした水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」などを取り上げることで、現代文化の中に国文学、民俗学が息づいていることを学生に示しています。実は、そもそも柳田国男や折口信夫などの行った民俗学、国文学は、それぞれの生きていた当時の現代文化への批判から始まっています。従って、現代文化を一方で考えながら民俗学、国文学を行うというのはそれらの学問の原点を見直すことにつながっていきます。今後も、現代文化を見据え、それに対する分析を手がかりにしながら、自分の専門分野を考えていこうと思っています。

投稿者: HP担当者 日時: 2007.08.02 Thursday 12:58 AM

「私が考える現代文化」

現代文化学科には、民俗学、日本語・日本文学、日本史、教育学、キリスト教学、アメリカ文学、中国思想、韓国文化、観光など多彩な研究分野を専門とする12名の専任教員がいます。ここでは、各教員スタッフが考える「現代文化とは何か」について連載していきます。

投稿者: HP担当者 日時: 2007.07.31 Tuesday 3:00 PM

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