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沿革/学校の校章と聖句

大学沿革

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1.創世記

1885(明治18)年、日本が明治という新しい時代の なかで国家の進むべき方向を模索していた頃、福岡の港にひとりの若い女性宣教師が降り立ちました。
彼女の名は、ジェニー・ギール。米国メソジスト監督教会から日本でのキリスト教普及の使命を受けた彼女は、あふれんばかりの理想を胸に、福岡女学院の前身 である「英和女学校」を福岡市呉服町に設立し、初代校長に就任しました。以来、63年にわたる全生涯を、キリスト教の伝道と日本の女子教育の向上に捧げたのです。
その間、1888年には、現在の福岡市天神に福岡唯一の西洋館として新校舎を建築、1919年に福岡市薬院に新校舎を建築し移転、校名を福岡女学校と改称 しました。
また、1921年には、全国で初めてのセーラー型制服を取り入れるなど、福岡女学院は、その後の日本の女子教育に大きな影響を与える学校として成長し、注目を浴びるようになりました。
2.苦難の時代
日米関係が悪化し始めた1929(昭和4年)、米国人宣教師たちの提案を受け、理事会 は日本人の校長を置くことを承認しました。仮に日米の国交が断絶した場合・校長は日本人とし、資産はすべて日本人の学校の所有とすることが当時の学校存続 の絶対条件であったからです。
そこで理事会は、1936年、財団法人の設立を決議しましたが、手続き上「基督教主義に基づき」という文言の削除と聖書を正科から外すべし、という学校の 建学の精神に関わる難関に直面。当時の校長德永ヨシの全精力を傾注した努力のさなか、太平洋戦争が勃発し、学校の基本財産は敵性資産として大蔵省の 管理に移されました。
しかし、德永校長をはじめ、学校に関わる多くの人々の努カの結果、「基督教主義に基づき」という文言も削除されることなく、1942年「財団法人福 岡女学校」の設立許可を受けることができました。
その後、国策の強化による基督教主義教育ヘの圧迫など、学校の存続に関わる深刻な危機を迎えますし、さらに1945年には福岡大空襲による校舎の焼失や財 政危機など、相次ぐ苦難の時代を経験しました。
3.短期大学設立に向けて
1948(昭和23)年に法人名が「財団法人 福岡女学院」と改称され、その後、制定された私立学校法によって1951(昭和26)年に現在の「学校法人 福岡女学院」に改称されました。
長い戦時中も県内唯一の5年制女子学校として苦難を乗り切り、いよいよ総合学園の建設計画が德永院長を中心に開始されました。
1961年、「短期大学設置調査準備委員会」が設置され、洋裁專攻科を廃止。
1960年に現在の福岡市上日佐に新校舎を建設し、1964年、福岡女学院短期大学(英語科・家政科)を開設し、その後1985年国文科が加わりました。
4.四年制大学の開設
創立以釆、学院が目指してきた最高の女子教育機関を実現するため、1981(昭和 56)年から4年制大学の設置に向けた本格的な取り組みを始めました。
そして、「政令指定都市」である福岡市での大学設置が認められないため、福岡県小郡市に大学開設を決定。「文化の香り高い田園都市」をめざす小郡の街からは、 全市をあげて大学開設に歓迎の意を示されました。
そして1990年、新しい小郡キャンパスに福岡女学院大学を開設し、人文学部を設置しました。さらに1999年、短大を改組転換し、日佐キャンパスに 人間関係学部を設置しました。
5.大学の統合
2001年人文学部は、開設時の日本文化学科と英米文化学科を横断的に改組して、新たに現代文化学科と表現学科を設置しました。このとき、大学を曰佐の地に統合すると決断して、新学科は福岡市曰佐の地に設置しました。
2002年には、小郡キャンパスを売却し、12年間にわたる小郡市での人文学部の教育研究は区切りを迎え、統合された曰佐の地で新しい歴史を刻むこととな りました。
2003年には、「英語のミッション」として切望されていた、高度の実践的英語教育を目指す「英語学科」を人文学部に新設しました。また、2006年度 から人間関係学科を「心理学科」に、また2007年度から人間発達学科を「子ども発達学科」に名称変更しました。
6.大学院設立の経緯とその後
1990年人文学部が設立された当初から大学院の設置を構想し、1999年人間関係学部がスタートした時点から大学院人文科学研究科の設立が検討されました。
2003年3月、人間関係学部が初めての卒業生を出すと同時に連続して大学院人文科学研究科を設置しました。専攻は比較文化専攻(1学年定員6名)と臨床 心理学専攻(同10名)の2専攻となりました。前者は主として人文学部を基盤として成立し、日本語文化圏と英語文化圏を含む比較研究を目指しており、後者 は文字通り臨床心理士の養成を目標としております。
本大学院は2004年度、人文科学研究科修士課程として完成し、同年度と翌年度に修了者を出しましたが、比較文化専攻からは、英語および日本語の専修免許 状を得て教職に活躍する者や博物館、マスコミ関係などで働く者などさまざまです。
臨床心理学専攻では、本研究科が臨床心理士認定協会によって「第1種」と認定されたことにより、2005年には修士課程修了早々、2005年に7名が、 2006名に12名の臨床心理士の資格を獲得しました。病院、学校、施設など各界で就職し活躍しております。
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学校の校章と聖句

1907(明治40)年頃、「英和」の文字入りビンを細い銀の鎖でわたした襟止めの徽章(きしょう)を和服に使用していました。これが校章の始まりといえます。
1915年、創立30周年を記念して、新たにぶどうの蔓を中央に「英和」の文字を入れた円形の校章が定められました。これは学院が聖句としてきたヨハネによる福音書第15章5節のキリストの言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」を図案化したものでした。
1941年、女学生の制服が全国同じ国民服的なスタイルに統一されると、新しい校章の制定がいそがれました。その9月、当時図画担当の田中順之助(冬心)先生のデザインによる現校章が制定され、全校生に授与されました。「この10個のぶどうの粒は、ひと筆で描き統けられます。...学院に在るすべての人は一つの線、すなわち主を首(かしら)とする一つの思いで、堅くつながっていなくてはいけない」という願いを具現化したものです。